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ゼロ戦について

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ゼロ戦それは日本の「空のものづくり」の原点

日本の”空のものづくり”の原点

ゼロ戦(零戦・ぜろせん)は、旧日本海軍の主力艦上戦闘機、零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)の愛称です。戦後70年が経ったいまも、その名は内外に広く轟いています。

1930年代後半に三菱重工業が開発。1945年の終戦までに、同社と中島飛行機(現在の富士重工業・SUBARU)により約10,000機と、日本航空機史上、最も多く生産されました。

ゼロ戦が登場したころ、2,000km以上の長大な航続距離、高い最高速度、そして優れた運動性能はアメリカ・イギリスなどの戦闘機のそれを圧倒的に凌駕していました。戦前の日本の工業技術力の結晶であるとともに、日本の”空のものづくり”の原点ということができるでしょう。

現在保存されているゼロ戦について

日本国内には約10機の復元機体が保存・展示されていますが、いずれも飛行することができません。現在、設計当時の栄エンジンを搭載して飛行可能なゼロ戦は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスのプレーンズオブフェイム航空博物館が所有するゼロ戦52型(機体番号:N46770/部隊識別記号:61−120)ただ1機です。

その他3機ほどが形式A6Mとして飛行していますが、残念ながらエンジンはカナダ製を搭載しており、当時のゼロ戦とは飛行性能等が異なります。

全世界でただ1機、栄エンジンを搭載し飛行可能なゼロ戦52型(機体番号:N46770

ゼロ戦52型(機体番号:N46770)

ゼロ戦オリジナルの栄31型発動機を搭載し、飛行可能な唯一のゼロ戦です。昭和19年3月頃に、中島飛行機製作所小泉工場で製造され、サイパン島アスリート飛行場に配備されましたが、製造後わずか3カ月後の6月に同飛行場にて米海兵隊に捕獲され、アメリカ本土に移送された機体です。

戦後民間に放出されたところ、プレーンズオブフェイム航空博物館創設者のエドワード・T・マロニー氏が譲り受け、5年もの歳月をかけてレストア、1978年に復元作業が完了しました。

この年1978年、そして1995年には日本に渡り、スティーブ・ヒントン氏の操縦で日本の空を飛行したことは多くの人に知られています。2012年にも、埼玉県所沢市の航空発祥記念館で展示され、エンジンの起動を行なった機体です。

現在アビエイタープロジェクトでは、この機体を使用し、ゼロ戦を日本人パイロットの手で日本の空に飛ばすプロジェクトを進めています。

ゼロ戦52型(機体番号:N46770)の概要

機体番号:N46770
製造番号:A6M5 中島5357号
部隊識別記号(尾翼):61−120
経歴:1944年(昭和19年)3月中島飛行機小泉製作所にて製造。アメリカ軍が捕獲し、本土に持ち帰ったものを米軍のテスト機関にてチャールズリンドバーグが飛行試験を実施した後、POFの創始者エドマロニー氏が米軍から払い下げを受けて、再飛行を1978年から現在も継続している。
エンジン:中島・栄31甲型 No.31262 ※オリジナルのエンジンを搭載
状態:飛行可能

動画ギャラリー

いまなおその勇姿を留めるゼロ戦の姿を動画でご覧いただけます。


1995年に、茨城県龍ケ崎市の龍ヶ崎飛行場で飛行したゼロ戦52型(機体番号:N46770)のもよう。


2012年に、埼玉県所沢市の航空発祥記念館でゼロ戦52型(機体番号:N46770)が展示され、エンジンの始動を行なった際の映像。


ゼロ戦の飛行のようす。先に紹介したゼロ戦52型(機体番号:N46770/部隊識別記号:61−120)

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